子どもが生まれた

子どもが生まれた。無政府主義者のプルードンと町田康と同じ誕生日だ。今日でちょうど一ヶ月になる。名前は矛生(むお)さんといい、矛盾を生きると書きます。ムオはハングル語で「何」を意味する疑問詞。若い頃に読んだ茨木のり子のエッセイ『ハングルへの旅』に、生まれてきた男の子に「矛生」と名付けた知人の話が出てくる。The Who や Why? など、疑問詞をその名に冠したバンドは総じて優れていると私はかねがね思っていたから、名前の候補として10年近く前からアイデアだけあったのだけれど、まさか本当に採用されるとは思わなかった。というか自分が子を儲けることになるとは思っていなかった。
もともとの予定より一ヶ月も早く生まれてきたこの人は低出生体重児で、とはいえ大きな問題があるわけではなかったのだけれど、生まれてしばらくはNICU(新生児集中治療室)で過ごした。病院では何枚も何枚も書類を記入した。大病院のあちこちにある窓口を行ったり来たりすることが父としての最初の仕事だった。自然の存在としてやってきた子どもをわれわれが生きる官僚制的システムに組み込むための事務作業を進める役割ということだ。家に戻れば出生届を始めとした書類も当然ある。数年前、永田希さんのサイトでマンガの書評を書かせてもらっていた頃、福満しげゆきの『妻と僕の小規模な育児』を紹介したことがある。

このなかで私は「子どもが生まれることを通じて「社会」に再配置されていかざるをえない」と書いている。もともと社会にさしてフィットしていない性質をしている人が、それでも自立を経て、ほどほどの距離を保つことができている。この現代で個人主義を程度の差こそあれ謳歌している人にはそういう側面がある。しかし子育てを通じて、距離をとったはずの社会にふたたび絡めとられる……。こういうことに斜に構えている自分ではもういられないんですなあ。父親が斜に構えていたらイヤだから。
家での生活が始まってからは、とんでもないことになったなとまず思った。昼夜なく三時間おきに腹を空かせて子どもは泣く。また、さまざまな理由で泣く。言葉をもたず、感情や感覚が未分化な赤子が表現できることの幅はせまい。新生児期はあっという間に過ぎていくというが、とはいえフルコミットしながら経験する一ヶ月は長い。はやく喋り出さないかな、と毎日思っている。アニマルとして生まれてきたヒトがだんだんスペクトラム的にヒューマンになっていくという人間観をもっているのだけど、この人が人間になるタイミングをよくよく観察しなければと思う。実態はかなりアニマルなのに、法的にはひとりの人間としての権利をもつ主体として扱われているのはすさまじいことでもある。
新刊情報『「いまどきの若者」の150年史』(パンス著)
3月発売の担当書です。『ポスト・サブカル焼け跡派』TVODの片割れ、パンス氏初の単著となる本書は「若者論」の歴史。年長者からの視点と、若者自身からの主張が交錯し、時代の中で特徴づけられ、まとまると「世代」になる。ライフワークとして年表を制作してきた著者が、明治からの令和までの日本の「若者」にまつわるサブカルチャーと政治経済と社会風俗を一本串に貫き通し、こんにちの「成熟」をめぐる「ねじれ」を描き出します。そして当然本書にも年表を収録。若者向けのちくまプリマー新書より。
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