『「いまどきの若者」の150年史』発売しました

近現代史とサブカルチャーのマニアが贈る、「若者論」の歴史。『ポスト・サブカル焼け跡派』などの著書があるテキストユニット「TVOD」の一員でもある、著者のパンスさんはもともと、私が20代前半頃にとあるバイト先の先輩として出会った人だ。その意味では長い付き合いのあるイチ知人として、この初めての単著でブレイクしてほしいと願っている。ただそうした贔屓は抜きにしても、われわれの現在地をつまびらかにしてくれる優れた批評になったと思う。
たとえばこの社会では「老害」という言葉が流通し、既得権益を握る年長者と、それを持たない若年者が対立関係にあるようにも見える。一方で、街を歩いていると、大人も若者もみんな似たような格好をして、同じような音楽を聴いているようにも見える。かつての若者文化にはもう少しわかりやすい境界があった。服装や音楽の趣味が、そのまま世代の記号になっていた。しかしいまは、Supremeを着た中年もいれば、戦前のフレンチヴィンテージを着ている若者もいる。オアシスの再結成に歓喜するのは往年のファンばかりかと思いきや、実際は当時生まれてすらいなかった世代が熱狂していたりする。
してみれば、「若者」という言葉は、以前よりも掴みどころのないものになっているのかもしれない。若者論というのは、若者そのものについて語っているようでいて、実際にはその時代の大人たちの不安や期待を語る言説でもある。ときには理解のできない不穏な存在として描かれ、ときには経済成長したこの国の新しい消費を担う存在として描かれる。当の若者は反発することもあれば、期待されるイメージを自分たちのアイデンティティにしてしまうこともある。

本書でも述べられているが、小学生の頃に読んだ毎日新聞社のムック『戦後50年』をきっかけに戦後史にはまりこんだパンスさんはそのライフワークとして、サブカルチャーと社会風俗にまつわる年表を作り続けてきた。本書はその蓄積をもとに、この日本社会において「若者」という存在がどのように語られてきたのかを辿るものだ。それぞれの時代を生きたわたしたちが影響を受けた言説や文化は、どのような系譜に位置づけられるのか。ひとつひとつの議論をつぶさに見ていくと、現代の私たちが当然のものとしている感性が、どのような経緯で生じたのかが見えてくる。そして歴史を振り返ると、似たような言説が形を変えながら繰り返されてきたこともわかる。ひいては、現在という地点をあらためて見直すための視点を与えてくれるだろう。
大詰めを迎えていた頃に子どもが急遽生まれて校了をバトンタッチせざるをえなかったり、編集作業はたいへんバタバタとしてしまったけれど、私もユースカルチャーに愛着があるから、どの図版を入れようかと悩むのはとても楽しかった。多様なトライブ(族)の雰囲気が伝わるように、徳富蘇峰からグレタ・トゥーンベリまで、できるかぎりさまざまな写真を入れ込んだつもりだ。また、本文を書き上げたばかりのパンスさんに「やっぱり年表があったほうが嬉しいですかね」と編纂をお願いしたのは酷だったが、その甲斐はあったと思う。年齢も入れていただいたので、教科書に出てくる二葉亭四迷も若者だったのだな、と歴史が血の通ったものとして感じられるかもしれない。

4月新刊①『積読こそが完全な読書術である』(永田希 著)
惜しくも急逝された書評家・永田希さんのデビュー作がちくま文庫になります。前職でこの本を制作していたとき、「ちくま文庫に入りそうな本」のつもりで編集していたのですが、自分で伏線回収してしまいました。解説は三宅香帆さん。翌5月には姉妹作『再読だけが創造的な読書術である』も文庫になります。
4月新刊②『「わたし」が死ぬということの哲学』(兼本浩祐著)
かつて自明だった「死」は、20世紀なかばに人工呼吸器が登場するとともにあいまいな概念となった。では「死」とはどのような事態なのだろうか。本書は、「体がなくなる」こと、「心がなくなること」、そして「自分がなくなる」とはどういうことかを徹底的に考え抜こうとするものです。そしてそれは、生きるということの根源を問うことの裏返しでもあります。遠い可能性として、または近く直面している恐怖として、死に関心を抱いた読者が、よりよく生きるための一冊と言えるでしょう。
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