#4 『ひとり』というディスクガイド
『ひとり』というディスクガイドを薦めていただいて読んだ。読んだというかまずはひと通り眺めて、目についたレコードを探してみたりした。
本書は90年代におけるリスニング文化に大きな影響を残したとされる『モンド・ミュージック』の編著者、ガジェット4が1999年に刊行したディスクガイドの新装版として、四半世紀ぶりに送り出された。「クラブで踊るためでもなければ、ライヴハウスで騒ぐためでもない、ひとりの雰囲気を持つ音楽」が集められているが、いかにも静謐なフォークミュージックもあれば騒々しいオルタナティヴロックもあるし、ソロもあればバンドもあり、知る人ぞ知るレコードもあれば、ゴールドディスク級の有名作もある。だから、作品の雰囲気や知名度がまったく関係ないということもないけれど、どちらかといえば聴取する側の「ありかた」としての「ひとり」を問いなおすような一冊になっている。選盤の紹介文もバイオグラフィなどのデータ的なものではなく、個々の評者がどう感じているかに重心を置いているように見える。
カンパニー社の工藤遥さんによる解説に書かれていたが、現代は「みんなにとっては重要かもしれない再生回数だの影響力(インプレッション)」の時代だ。「みんな」ということをなにかと意識させられる時代である。「アテンションエコノミー」が言われていて、人びとの注意や時間が奪い合いになっていることなどが言われている。あるいはコミュニケーションの形や、場が変容したということも言われている。常時接続の情報環境。ポップミュージックに関していえば、メディアの形式や批評の存在感にも変化があった。いずれにしても、まずはそのときどきの「話題」というものがあり、みんながその話をしているような気分になってくる。その外は奈落になっている。話題と無関係な石を投げ込んでも反応がない。チャゲアスについて10年前に語るのと今日語るのでは違いがある。よほど孤独が板についているわけでもないならば、ひとりで音楽を聴くことは心細い。
この文章を書いている間、ふいにツイッターを開いたら、最新音楽情報アカウントみたいな方の投稿で「何がバイラルしているかをキャッチするために、毎日TikTokを最低一時間見るようにしている」という発言が流れてきた。カルチャーの最前線に目を向けることは必要だ。流行に則ることは社会的なステイタスを上昇させる効果もある。しかし率直に……そこまで「今」を追いかける気概はないなと思った。やりたくてやってることなら大いにおやりよ、が大前提だが、逆張りぎらいの時代とはいえ、もう少し斜に構えてもいいんじゃないか。
とはいえ、普段の出版の仕事についても似たようなことはついてまわる。本こそ「ひとり」で読むものではないかと思われるかもしれないが、たとえばこうしたプロモーションなどのように「みんな」の力学は発動している。送り手は「まず知ってもらわなければ」と考えているし、「話題になってほしい」と思っている。そうならないとこの世界に存在すらしていないような気がしてくる。だから「みんな読んでる」ということをいろんな方法でアピールする。だけど、とりあえず私はうまくいってないので、スポイルされていっている感じがある。
そんなわけで、このディスクガイドに触れて、「ひとり」というありかたがある、あったということを思い起こさせてくれたという感慨がまずあった。そんなことすら私は忘れてしまっていたからシンプルに突き刺さった。いま誰も話題にしていないレコードや、思い返す機会を失っていたレコードがこんなにあった。ディスクガイドという形式の本自体手に取ったのが数年ぶりで、まさに読者の手を引いていくものとしてこんなに頼もしいものだったのかと思った。また明日から、世界と対峙しなおすための必要な姿勢を取ることができそうだ。
わたしのひとりディスク
高校生の頃、ビートルズをよく聴いていた。3年生になると授業が選択制になり、おのおのの時間割で過ごすようになった。友達がいないわけでも学校が嫌というわけでもなかったが、受験勉強や本格的に読み始めた音楽雑誌等を通じて、なんというか "ノリ" がずれ始めていた。ともかく午前中だったと思うが、誰もいない部室に立ち寄り、「ひとりぼっちのあいつ」を聴いた。そしてその日は胸に迫るものがあった。RCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」はまだちゃんと聴いたことはなかったが、あの歌詞をほとんど地で行っていた。ただし屋上ではなく薄暗い部屋で、遠くから届く電波ではなくiPodのイヤホンで耳を塞いでいる。これが自分にとっての基本的な体勢なのだと思う。
「アシッドフォーク」と呼ばれる音楽で最初に触れた作品だったが、結局これ以上に迫力を感じさせる作品には出会わなかった。何も見ていない目線、黄泉の向こう側から響いてくる音、よるべのない演奏。「西海岸のシド・バレット」と言われる来歴もおどろおどろしかった。しかしシド・バレットにしろスキップ・スペンスにしろ「俺はアシッドフォークをやるぜ」などと考えていたわけはないはずで、どういう音楽を目指してこうなってしまったのだろう。コロナウイルスに罹患し入院し、隔離され、無限の時間を持て余していた際にベッドの上で聴いたこともあった。ありがたい音楽だった。
陽が落ちかけて完全な暗闇がやってくるまでのグラデーションがかったマジックアワー。ゆるやかなリズムはリラックスしたムードを湛えている。楽しかった一日にも終わりがやってくる。それがかなしく思えるときもあれば、そうでもないときもある。「1990年代の日本の音楽文化はおおむね渋谷を中心に回っていた。『ひとり』が映し出す景色も然り、まぎれなく渋谷である」再三言及している本書の解説でこう述べられているが、このレコードも渋谷が関係しているはずだ。しかし当時の喧騒に間に合っていない世代の私は文京区の図書館で本盤と出会った。若い頃の私が孤独に掘り当てたと思い込んでいたほとんどの音楽は先行世代が見つけてきたもので、それはある種の諦めでもあれば、縦の時間軸においてはひとりぼっちではないことの証左でもある。
雑談とか、カルチャーの話とか、うめき声をあげたりするDiscordサーバーをやっています。これについては「ひとり」ではなく「みんな」の力学でやらせていただいております。まあ、人間にはバランスが必要だから。それに「ひとり」っぽい人が集まったところで「みんな」にはならないんじゃないか。え、それってだいぶさみしいかもしれない。ともあれ少しずつメンバーが増え、交流も生まれるようになってきました。